2017年04月28日

豊臣秀吉

豊臣秀吉の人柄はこんな感じだったそうです。

本能寺の変の黒幕であったのではないか?という説もあります。
詳しくは↓


ドラマなどでは人を殺すことを嫌う人物のように描写されることの多い秀吉であるが、実際には元亀2年に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』や『信長公記』より)、天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑する(同年12月5日の羽柴秀吉書状より)等、晩年だけでなく信長の家臣時代でも、少なくとも他の武将並みの残酷な一面があったようである。

母親の大政所への忠孝で知られる。小牧・長久手の戦いの後、必要に迫られて一時徳川方に母と妹を人質に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。

天下人としての多忙な日々の中でも、妻の北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出しており、そのうちの幾つかは現存している。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、結局臨終には間に合わなかった。

秀吉が親孝行であったことは明治時代の国定教科書でも好意的に記述された。

戦国大名は主君と臣下の男色(いわゆる「衆道」)を武士の嗜みとしていた(有名なのは織田信長と森蘭丸などである)。しかし秀吉には男色への関心がまったくと言ってよいほどなかった。

男色傾向の無さを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び入れ、秀吉に会わせ二人きりにさせたのだが秀吉はその少年に「お前に妹か姉はいるか?」と聞いただけだったとされる。

非常に世評を気にする人物であった。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。

一方、聚楽第に書かれた自身を非難する落書が書かれた際は当番の兵を処刑し、作者を探し出して自害させている。


後世の評価

明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多かった(秀吉を肯定することで家康を貶め、しいては江戸幕府の評価を下げることで明治政府の正当性を高めるという側面もあったとも指摘される)。

その評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。

このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多い。

江戸時代では逆に「徳川史観」の元に、石田三成などのように意図的に貶められた存在として描かれていた。

秀吉を好意的に評価する土地は多く、特に、誕生の地である名古屋市中村区(記念館がある。また名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする)、政権を執った本拠地の大阪市(江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い)などでは人気が高い。

意外なことに書に優れ、北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。

本能寺の変の黒幕説

本能寺の変の黒幕は秀吉ではないか、とされる説が囁かれる事が多い。

その説の根拠は、秀吉の信長に対する必要ないと思われる援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴えて援軍を要請した。

ところが当時の毛利氏は、相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続らの侵攻も受けていたため、高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の1万5000ほどでしかなく、救援など不要であったと思われる。

では、なぜこのような要請を行なったのかと言えば、当時の信長は三職補任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため、京都に上洛する必要があった。

明智光秀はそこを狙って「本能寺の変」を起こした訳だが、ひとつだけ大きな問題があった。それは、軍勢を集める理由である。

ところが秀吉の必要ない救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われること無く軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たしているのである。

光秀が近衛前久と内通していたという説があるように、秀吉も当時の朝廷の実力者である大納言の勧修寺晴豊あたりと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、わざわざこのような要請を行なったのではないかと言われている。

また、秀吉の中国大返しに関しても、如何に秀吉が優秀な武将だったとはいえ、あの速さは事前に用意をしていなければ出来ない、という疑惑が持たれている。

ただし、以上のような説は正規の学説にはなっておらず、むしろ小説家がフィクションとして採用している例がほとんどである。

上記の説についても、反論を挙げる事は可能である。

『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した可能性が存在する。

明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。

秀吉の援軍要請は、手柄を独占する事によって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)為の保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する。

いわゆる「中国大返し」についても、信長自身による援軍を迎えるための道中の準備が、たまたま功を奏したに過ぎない。

『事前に用意していなければ出来ない』とする説はほとんどが近年の学者が述べている発言であり、当時秀吉や豊臣家と関係があった武士からは敵味方を問わず中国大返しを疑問視した発言や記録は出ていない。

「本能寺の変」を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃する事を主張したが、小早川隆景らの反対によって取り止めになっている。

一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られた事により大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険極まり無い事を、謀略としてあえて意図したとは考えにくい。

また、もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。

共謀が事実ならばそのことを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合はほぼ不可能となる。光秀方にきわめて有利な情勢を作り出せるからである。

当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。
参考:wikipedia
タグ:豊臣秀吉
posted by りんたろう at 21:08| 歴史読本 2007年 09月号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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