「西郷どん」と呼ばれたその人柄は・・・
「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。
また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。
「先生の肥大は、始めからぢや無い。
何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことぢや。
戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかったぢや。
長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。
少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。
斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑ぢやつた。」
「うーとん」「うどめ」などの徒名の由来
「うどめ」とは「巨目」という意味である。
西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。
その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。
そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。
その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。
沖永良部島の「社倉」のその後
沖永良部島は台風・日照りなど自然災害が多いところであったが絶海の孤島だったので、災害が起きたときは自力で立ち直る以外に方法がなかった。
そのことを知った西郷は『社倉趣意書』を書いて義兄弟になっていた間切横目(巡査のような役)の土持政照に与えた。
社倉はもともと朱熹の建議で始められたもので、飢饉などに備えて村民が穀物や金などを備蓄し、相互共済するもので、江戸時代には山崎闇斎がこの制度の普及に努めて農村で広く行われていた。
若い頃から朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。
この西郷の『社倉趣意書』は土持が与人となった後の明治3年(1870年)に実行にうつされ、沖永良部社倉が作られた。
この社倉は明治32年(1899年)に解散するまで続けられたが、明治中期には20,000円もの余剰金が出るほどになったという。
この間、飢饉時の救恤(きゅうじゅつ)の外に、貧窮者の援助、病院の建設、学資の援助など、島内の多くの人々の役にたった。
解散時には西郷の記念碑と土持の彰徳碑、及び「南洲文庫」の費用に一部を充てた外は和泊村と知名村で2分し、両村の基金となった。
猟好きと猟犬
西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。
西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。したがって猟犬を非常に大切にした。
東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。
マキャベリストとしての評価
敬天愛人の体現者としての評価とは別に冷酷なマキャベリストしての評価も存在する。
幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊を偽官軍として処断するなど道義に反する行いも数々している。
だが、己の保身や栄達のために策を講じたことはないとされ、このことが後の西郷の高い人格的評価の源泉となっている。
その一方、維新後は政治的な策略や欺瞞を一切行わなくなった。だが皮肉なことにこのことが結果的に西郷を政治的な隠遁に追い込む遠因となった。
参考:wikipedia
ラベル:西郷隆盛