「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(時鳥はホトトギス)という歌がその性格を表していると言われているが、これは本人が作ったものではなく平戸藩主・松浦清(松浦静山)の随筆『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である。
また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ...」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍はあまりに気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。
『信長公記』によれば、浅井父子と朝倉義景の三人の頭蓋骨に金箔を塗り、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。
これは後世、杯代わりにして家臣に飲ませたという話になっているが、小説家の潤色であり、実際には使用していない。
髑髏を薄濃(はくだみ)にするというのは、死者への敬意を表すものである。
ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。
声はかん高く、常に武技を好み、粗野である。
正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはほとんど無い。
人々からは異常なほどの畏敬を受けている。
酒は飲まない。自分をへりくだることはほとんど無く、自分以外の大名のほとんどを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。
よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。
名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。
その事業は完全かつ功名を極めている。人と語るときには遠回しな言い方を嫌う」と記した。
世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたことが、京の公家などが記した日記などから窺い知ることができる。
参考:wikipedia
ラベル:織田信長