部下思いでしたが、常軌を逸した行動も取ったようです。
永禄12年(1559年)には上洛中、堺で無礼を働いた旅宿の主を手討ちにし、それに抗議した町人たちを追い払い、さらに町に放火したという。
他にも厩橋城の城代・長尾謙忠とその郎党を「謀反の疑い有り」として討ったこともある。
これらの逸話は彼の奇矯な性格の一面を伝えているが、全てに確証があるわけではない。
永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では忍城城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたという。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまった。原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で、武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなった。
この事件は、謙信の激昂しやすく短慮な一面を伝える逸話として知られる。ただし、成田氏の地位はこのように尊大な態度を取れるほど過大ではなく、義家を馬上で迎える先例も原史料では認められず、研究者間はこれを事実とは認めていない。
自己の正当性への確信
謙信は自分の行動は理由がなくても絶対に正当であると思っていたようだ。
それゆえに手討ちだろうが私的殺人だろうが、彼に後悔や反省はなかったという。
戦場においてもそれは同じで、銃弾が頭髪をかすめようとも、自分に当たるわけがないと信じて恐れもなく戦ったり、合戦前には自分の正当性を示す願文を神仏に奉納した。
部下への配慮
天正元年(1573年)8月に越中国と加賀国の国境にある朝日山城を攻めた際に、一向一揆による鉄砲の乱射を受けて謙信は一時撤退を命じたが、吉江景資の子・与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしなかったため、謙信は与次を陣内に拘禁した。
驚いた周辺は与次を許すように申し入れたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」とこれを拒んで、事情を吉江家に伝えている。
与次は間もなく許されて、急死した中条景資の婿養子となって中条景泰と改名した。
ラベル:上杉謙信