2017年07月25日

木戸孝允

木戸孝允は幕末には、桂小五郎として言われていました。
尊王攘夷派の中心人物です。


木戸孝允の眼力は一目置かれていました。

土佐の坂本竜馬と親しく交際し薩長同盟に結びつけ、また幕府打倒の軍事行動を最終的に全て指揮する事になった大村益次郎の後ろ盾となり、一介の平民の彼に周囲の反発を押し切って大役を任せ得るのは全て木戸の進言あってのものであった。

また明治後、木戸同様、木戸に見込まれるほどに開明的で権力闘争に向いている板垣や大隈が下野したからこそ、(皮肉にも)薩長政府は常に近代化へ向けての手痛い批判に晒され続けることになり、日本の政党運動が軌道に乗り、国民意識もそれなりに発展し得たと言える。

木戸自身、幕末においては絶えず命を危険にさらし続けながら、徳川幕府に対して倒幕運動を推進し続けて来た第一人者であった。

そういうことを考え併せると、やはり木戸の目に狂いはなかったということになる。木戸が開明的な板垣や大隈を(出身藩の別を超えて)熱心に引き上げ、調和的に明治政府の参議にまで登り詰めさせておいたからこそ、薩長政府も日本の政党活動も、それなりに機能し得たということになる。

また、木戸孝允の弟子的存在だったのが、あの伊藤博文です。

木戸と同様、武士の生まれではなかった軽輩者の伊藤自身は、単に木戸の愛弟子であるだけでなく、木戸と同様に至誠の実践者である松陰の愛弟子でもあり、初代奇兵隊総督高杉晋作の弟分でもあり、都落ち七卿の一人で誠実な三条実美の弟子でもあり、明治政府に入ってからは大久保や岩倉の弟子にもなっている。

自分で師匠を見つけては積極的に弟子入りし、積極的に下働きし、積極的に何ものかを吸収して行くのが上手いと言える(その分、下手な思想性はない)。

木戸が1873年(明治6年)以降、病気がちで参議内閣に出席できなくなると、その代役、つまり長州を代表する参議として抜擢されたのが、伊藤である。既に木戸の執事的存在であり、かつ有能な官僚でもあった。

また、木戸没後の話であるが、木戸が病気を押して熱心に推進していた地方官会議の第二回目が開催されることになると、その議長という難職を自ら買って出、律儀に務め上げたのも、伊藤である。

これ以降、衆議院議長(立法府の長)と各委員会の委員長と全国知事会の会長と全国都道府県議会議長会の会長と首相(行政府の長)の五つを一人で兼任しているような地方長官会議議長という過渡期的な難職は、日本の政治から消える。木戸が率先して提言し続け、木戸が作成しなかった明治憲法の下での帝国議会が地方長官会議に取って代わる。
参考:wikipedia

posted by りんたろう at 19:29| 歴史街道 2007年 03月号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
このサイトは「りなの日記」ではありません
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。