2017年12月16日

木戸孝允

木戸孝允は幕末には、桂小五郎として言われていました。
尊王攘夷派の中心人物です。


木戸孝允の眼力は一目置かれていました。

土佐の坂本竜馬と親しく交際し薩長同盟に結びつけ、また幕府打倒の軍事行動を最終的に全て指揮する事になった大村益次郎の後ろ盾となり、一介の平民の彼に周囲の反発を押し切って大役を任せ得るのは全て木戸の進言あってのものであった。

また明治後、木戸同様、木戸に見込まれるほどに開明的で権力闘争に向いている板垣や大隈が下野したからこそ、(皮肉にも)薩長政府は常に近代化へ向けての手痛い批判に晒され続けることになり、日本の政党運動が軌道に乗り、国民意識もそれなりに発展し得たと言える。

木戸自身、幕末においては絶えず命を危険にさらし続けながら、徳川幕府に対して倒幕運動を推進し続けて来た第一人者であった。

そういうことを考え併せると、やはり木戸の目に狂いはなかったということになる。木戸が開明的な板垣や大隈を(出身藩の別を超えて)熱心に引き上げ、調和的に明治政府の参議にまで登り詰めさせておいたからこそ、薩長政府も日本の政党活動も、それなりに機能し得たということになる。

また、木戸孝允の弟子的存在だったのが、あの伊藤博文です。

木戸と同様、武士の生まれではなかった軽輩者の伊藤自身は、単に木戸の愛弟子であるだけでなく、木戸と同様に至誠の実践者である松陰の愛弟子でもあり、初代奇兵隊総督高杉晋作の弟分でもあり、都落ち七卿の一人で誠実な三条実美の弟子でもあり、明治政府に入ってからは大久保や岩倉の弟子にもなっている。

自分で師匠を見つけては積極的に弟子入りし、積極的に下働きし、積極的に何ものかを吸収して行くのが上手いと言える(その分、下手な思想性はない)。

木戸が1873年(明治6年)以降、病気がちで参議内閣に出席できなくなると、その代役、つまり長州を代表する参議として抜擢されたのが、伊藤である。既に木戸の執事的存在であり、かつ有能な官僚でもあった。

また、木戸没後の話であるが、木戸が病気を押して熱心に推進していた地方官会議の第二回目が開催されることになると、その議長という難職を自ら買って出、律儀に務め上げたのも、伊藤である。

これ以降、衆議院議長(立法府の長)と各委員会の委員長と全国知事会の会長と全国都道府県議会議長会の会長と首相(行政府の長)の五つを一人で兼任しているような地方長官会議議長という過渡期的な難職は、日本の政治から消える。木戸が率先して提言し続け、木戸が作成しなかった明治憲法の下での帝国議会が地方長官会議に取って代わる。
参考:wikipedia

posted by りんたろう at 19:42| 歴史街道 2007年 03月号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

西郷隆盛

西郷隆盛は大久保利通、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と言われています。

「西郷どん」と呼ばれたその人柄は・・・


「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。

また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。


「先生の肥大は、始めからぢや無い。

何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことぢや。

戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかったぢや。

長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。

少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。

斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑ぢやつた。」


「うーとん」「うどめ」などの徒名の由来

「うどめ」とは「巨目」という意味である。

西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。

その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。

そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。

その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。



沖永良部島の「社倉」のその後

沖永良部島は台風・日照りなど自然災害が多いところであったが絶海の孤島だったので、災害が起きたときは自力で立ち直る以外に方法がなかった。

そのことを知った西郷は『社倉趣意書』を書いて義兄弟になっていた間切横目(巡査のような役)の土持政照に与えた。

社倉はもともと朱熹の建議で始められたもので、飢饉などに備えて村民が穀物や金などを備蓄し、相互共済するもので、江戸時代には山崎闇斎がこの制度の普及に努めて農村で広く行われていた。

若い頃から朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。

この西郷の『社倉趣意書』は土持が与人となった後の明治3年(1870年)に実行にうつされ、沖永良部社倉が作られた。

この社倉は明治32年(1899年)に解散するまで続けられたが、明治中期には20,000円もの余剰金が出るほどになったという。

この間、飢饉時の救恤(きゅうじゅつ)の外に、貧窮者の援助、病院の建設、学資の援助など、島内の多くの人々の役にたった。

解散時には西郷の記念碑と土持の彰徳碑、及び「南洲文庫」の費用に一部を充てた外は和泊村と知名村で2分し、両村の基金となった。


猟好きと猟犬

西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。

西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。したがって猟犬を非常に大切にした。

東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。


マキャベリストとしての評価

敬天愛人の体現者としての評価とは別に冷酷なマキャベリストしての評価も存在する。

幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊を偽官軍として処断するなど道義に反する行いも数々している。

だが、己の保身や栄達のために策を講じたことはないとされ、このことが後の西郷の高い人格的評価の源泉となっている。

その一方、維新後は政治的な策略や欺瞞を一切行わなくなった。だが皮肉なことにこのことが結果的に西郷を政治的な隠遁に追い込む遠因となった。
参考:wikipedia
ラベル:西郷隆盛
posted by りんたろう at 19:42| 歴史群像 2007年 10月号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

豊臣秀吉

豊臣秀吉の人柄はこんな感じだったそうです。

本能寺の変の黒幕であったのではないか?という説もあります。
詳しくは↓


ドラマなどでは人を殺すことを嫌う人物のように描写されることの多い秀吉であるが、実際には元亀2年に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』や『信長公記』より)、天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑する(同年12月5日の羽柴秀吉書状より)等、晩年だけでなく信長の家臣時代でも、少なくとも他の武将並みの残酷な一面があったようである。

母親の大政所への忠孝で知られる。小牧・長久手の戦いの後、必要に迫られて一時徳川方に母と妹を人質に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。

天下人としての多忙な日々の中でも、妻の北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出しており、そのうちの幾つかは現存している。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、結局臨終には間に合わなかった。

秀吉が親孝行であったことは明治時代の国定教科書でも好意的に記述された。

戦国大名は主君と臣下の男色(いわゆる「衆道」)を武士の嗜みとしていた(有名なのは織田信長と森蘭丸などである)。しかし秀吉には男色への関心がまったくと言ってよいほどなかった。

男色傾向の無さを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び入れ、秀吉に会わせ二人きりにさせたのだが秀吉はその少年に「お前に妹か姉はいるか?」と聞いただけだったとされる。

非常に世評を気にする人物であった。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。

一方、聚楽第に書かれた自身を非難する落書が書かれた際は当番の兵を処刑し、作者を探し出して自害させている。


後世の評価

明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多かった(秀吉を肯定することで家康を貶め、しいては江戸幕府の評価を下げることで明治政府の正当性を高めるという側面もあったとも指摘される)。

その評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。

このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多い。

江戸時代では逆に「徳川史観」の元に、石田三成などのように意図的に貶められた存在として描かれていた。

秀吉を好意的に評価する土地は多く、特に、誕生の地である名古屋市中村区(記念館がある。また名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする)、政権を執った本拠地の大阪市(江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い)などでは人気が高い。

意外なことに書に優れ、北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。

本能寺の変の黒幕説

本能寺の変の黒幕は秀吉ではないか、とされる説が囁かれる事が多い。

その説の根拠は、秀吉の信長に対する必要ないと思われる援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴えて援軍を要請した。

ところが当時の毛利氏は、相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続らの侵攻も受けていたため、高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の1万5000ほどでしかなく、救援など不要であったと思われる。

では、なぜこのような要請を行なったのかと言えば、当時の信長は三職補任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため、京都に上洛する必要があった。

明智光秀はそこを狙って「本能寺の変」を起こした訳だが、ひとつだけ大きな問題があった。それは、軍勢を集める理由である。

ところが秀吉の必要ない救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われること無く軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たしているのである。

光秀が近衛前久と内通していたという説があるように、秀吉も当時の朝廷の実力者である大納言の勧修寺晴豊あたりと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、わざわざこのような要請を行なったのではないかと言われている。

また、秀吉の中国大返しに関しても、如何に秀吉が優秀な武将だったとはいえ、あの速さは事前に用意をしていなければ出来ない、という疑惑が持たれている。

ただし、以上のような説は正規の学説にはなっておらず、むしろ小説家がフィクションとして採用している例がほとんどである。

上記の説についても、反論を挙げる事は可能である。

『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した可能性が存在する。

明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。

秀吉の援軍要請は、手柄を独占する事によって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)為の保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する。

いわゆる「中国大返し」についても、信長自身による援軍を迎えるための道中の準備が、たまたま功を奏したに過ぎない。

『事前に用意していなければ出来ない』とする説はほとんどが近年の学者が述べている発言であり、当時秀吉や豊臣家と関係があった武士からは敵味方を問わず中国大返しを疑問視した発言や記録は出ていない。

「本能寺の変」を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃する事を主張したが、小早川隆景らの反対によって取り止めになっている。

一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られた事により大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険極まり無い事を、謀略としてあえて意図したとは考えにくい。

また、もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。

共謀が事実ならばそのことを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合はほぼ不可能となる。光秀方にきわめて有利な情勢を作り出せるからである。

当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。
参考:wikipedia
ラベル:豊臣秀吉
posted by りんたろう at 19:42| 歴史読本 2007年 09月号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

上杉謙信

上杉謙信はこんな性格だったと言われています。

部下思いでしたが、常軌を逸した行動も取ったようです。




永禄12年(1559年)には上洛中、堺で無礼を働いた旅宿の主を手討ちにし、それに抗議した町人たちを追い払い、さらに町に放火したという。

他にも厩橋城の城代・長尾謙忠とその郎党を「謀反の疑い有り」として討ったこともある。

これらの逸話は彼の奇矯な性格の一面を伝えているが、全てに確証があるわけではない。

永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では忍城城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたという。

諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまった。原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で、武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。

謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなった。

この事件は、謙信の激昂しやすく短慮な一面を伝える逸話として知られる。ただし、成田氏の地位はこのように尊大な態度を取れるほど過大ではなく、義家を馬上で迎える先例も原史料では認められず、研究者間はこれを事実とは認めていない。


自己の正当性への確信

謙信は自分の行動は理由がなくても絶対に正当であると思っていたようだ。

それゆえに手討ちだろうが私的殺人だろうが、彼に後悔や反省はなかったという。

戦場においてもそれは同じで、銃弾が頭髪をかすめようとも、自分に当たるわけがないと信じて恐れもなく戦ったり、合戦前には自分の正当性を示す願文を神仏に奉納した。

部下への配慮
天正元年(1573年)8月に越中国と加賀国の国境にある朝日山城を攻めた際に、一向一揆による鉄砲の乱射を受けて謙信は一時撤退を命じたが、吉江景資の子・与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしなかったため、謙信は与次を陣内に拘禁した。

驚いた周辺は与次を許すように申し入れたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」とこれを拒んで、事情を吉江家に伝えている。

与次は間もなく許されて、急死した中条景資の婿養子となって中条景泰と改名した。
ラベル:上杉謙信
posted by りんたろう at 19:42| 歴史読本 2007年 10月号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

織田信長

かの有名な「織田信長」はこんな性格だったと言われています・・・



「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(時鳥はホトトギス)という歌がその性格を表していると言われているが、これは本人が作ったものではなく平戸藩主・松浦清(松浦静山)の随筆『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である。


また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ...」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍はあまりに気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。


『信長公記』によれば、浅井父子と朝倉義景の三人の頭蓋骨に金箔を塗り、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。

これは後世、杯代わりにして家臣に飲ませたという話になっているが、小説家の潤色であり、実際には使用していない。

髑髏を薄濃(はくだみ)にするというのは、死者への敬意を表すものである。

ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。

声はかん高く、常に武技を好み、粗野である。

正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはほとんど無い。

人々からは異常なほどの畏敬を受けている。

酒は飲まない。自分をへりくだることはほとんど無く、自分以外の大名のほとんどを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。

よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。

名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。

その事業は完全かつ功名を極めている。人と語るときには遠回しな言い方を嫌う」と記した。

世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたことが、京の公家などが記した日記などから窺い知ることができる。
参考:wikipedia
ラベル:織田信長
posted by りんたろう at 19:42| 歴史読本 2007年 11月号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
このサイトは「りなの日記」ではありません

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。